1936年に創刊した毎日小学生新聞の歩みは、日本が戦争へと向かっていた時代と重なります。戦争が激しくなるにつれ、新聞にも大きな影響が出ました。ニュースや読みもの、漫画にも戦争を扱った内容が多くなりました。学童疎開は当時、どのように伝えられていたのでしょうか。=1面からつづく
1941年に尋常小学校(今の小学校)が「国民学校」に変わると、子どもたちも「少国民」と呼ばれるようになりました。それに合わせて毎日小学生新聞も「少国民新聞」に名前を変えました。
44年6月30日に「学童疎開促進要綱」が大臣による会議(閣議)で決定されると、7月9日の紙面には「戦う国の少国民だ 疎開して勝ち抜くぞ 重要都市の学童疎開方針決まる」という見出しで報じられました。31日には、栃木県へ集団疎開する東京都内の国民学校の子どもたちの壮行会の様子も紹介されています。町会長が「皆さんが疎開するのは、兄さんやお父さんが赤紙のお召しを受けるのと同じことです。規律正しい生活をするのですよ」と話し、6年生の代表は「私たちはきっと今よりもっと強い子になって帰って来ます」と答えました。赤紙とは戦時中、軍隊に入るのを命じた「召集令状」のことです。
8月下旬からは「私たちの生活」という連載で、各地の疎開先の様子が紙面で紹介されるようになりました。8月27日には、「この元気な姿を お母さん見て下さい 東金と松島へ疎開の友から」という見出しで、洗濯などに励む姿を伝え、「お母さんたちは、きっとお喜びになるでありましょう」と書かれていました。一方で、都市部に残った子どもたちの様子も報じています。22日の「疎開組に負けぬ 残留組の新学期始まる」という記事では、都内の国民学校で元気に教室を掃除する姿が紹介されました。
戦況が悪化しても、「少国民も国のためにがんばろう」というトーンに変化はありませんでした。45年1月2日の紙面では、静岡県に疎開した子どもたちが疎開先で初めて新年を迎えた様子が紹介されています。お雑煮を食べて新年を祝う一方、前線で戦う家族を思い、「『さあ、米鬼(アメリカ人への差別的な呼び方)め、今年はもっとがんばるぞ。』と心から叫ぶのでした」と伝えられていました。
また、雪の降る地域での生活を紹介する記事もありました。2月7日には「もうすっかり山里の子供になりきっています」と、宮城県に疎開した子どもたちが寒さに負けず、木炭運びなどを手伝う様子が伝えられています。
3月10日の東京大空襲後、16日に「学童は全部疎開 帝都の学校は閉鎖する」という記事が載りました。その後、少国民新聞は31日を最後に休刊し、終戦後の11月に復刊しました。
当時の紙面からは、学童疎開が国の方針として進められ、子どもたちへ「強く生きること」を求め、美談として描かれていることがうかがえます。現実は戦争の長期化により、社会的に弱い立場にある子どもたちは、厳しい状況を強いられていました。【真田祐里】
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引用部分は、当時の書き方を今の書き方に直しています。
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