死者・行方不明者計43人を出した長崎県の雲仙・普賢岳大火砕流から3日で35年になりました。1990年11月に始まった噴火活動は約5年におよびました。南島原市では91年9月の火砕流で自宅や牛舎などを失った農家が再出発しました。一家の孫の小学生が、家族から聞いた噴火災害の記憶をキャンドルに描きました。【久保田修寿】
5月下旬、普賢岳のふもと、南島原市深江町の自宅倉庫で福島慎司さん(48)は妻・小夜子さん(48)、母・文子さん(76)とハウス栽培した桃「ちよひめ」1500玉の初出荷に追われていました。桃を包む白いネット状の「フルーツキャップ」と出荷用の段ボール箱は、長男で小学6年の雄飛さん(11)と次男で4年の岳さん(9)が仕分けをして組み立てました。
福島家は代々、深江で畜産や葉タバコ栽培を手がける農家でした。しかし、噴火災害でくらしは一変しました。91年6月3日の大火砕流後、避難生活が始まりました。自宅の周りにあった牛舎への立ち入りは制限されました。牛が死なないように父・敏郎さん(78)と文子さんが、えさやりに通いました。
91年9月の火砕流では南島原市深江町と、となりの島原市で住宅・山林火災が発生。福島家の自宅、牛舎、農機具などのほか、慎司さんの母校・大野木場小学校の旧校舎も被害にあいました。その後、敏郎さんと文子さんは深江町にもどって桃作りを始め、慎司さんも加わって、規模を大きくしていきました。
雄飛さんと岳さんは、新しい校舎になった大野木場小に通います。旧校舎が被災した9月が近づくと、「その時、お父さんやじいちゃん、ばあちゃんはどげんしとったと」と聞きます。火砕流のあと一帯は熱くて近づけなかったことや、火砕流で焼けた自宅の様子、死んだ牛がパンパンにふくれて横たわっていたこと……。文子さんはそのたびに話してきたのだそうです。
岳さんは今年、文子さんたちから聞き、焼けた家や牛、桃の絵を6月3日の追悼行事用のキャンドルに描きました。そのことを知った慎司さんは「火砕流が起きる朝も両親が牛にえさをあげた。その牛が死んだことはぼくも強烈に覚えている。かわいそうだった。ぼくたちとちがい、体験していない世代が興味を持ち、理解してくれるのは大事」と目を細めます。
追悼行事で点灯するキャンドル作りは島原半島の小学校などが参加していて、大野木場小では3、4年生が担います。岳さんにとっては最後のキャンドル作りになりました。
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