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アメリカ軍が最初に上陸した慶良間諸島の一つ、渡嘉敷島では、山中に身を隠した住民たちが、家族や親しい人たち同士で命を絶つ「集団自決」が起きました。現在は沖縄県名護市で暮らす小嶺照子さん(90)も、10歳の時にその場にいました。自身は助かりましたが、幼い妹は祖父に木の棒で殴られて亡くなりました。「抱きしめて助けてあげればよかった」。小嶺さんは80年たった今も、後悔の念で胸が苦しくなるといいます。【喜屋武真之介、写真も】
アメリカ軍は沖縄本島への上陸に先立ち、その西に浮かぶ慶良間諸島へ侵攻しました。1945年3月26日に阿嘉島や座間味島などに、27日は隣の渡嘉敷島に上陸しました。
当時の日本軍は「捕虜になるのは恥」という教えを住民にも広め、「捕虜になれば殺される」などとアメリカ軍に対する恐怖心をあおりました。住民たちは島の山中やガマ(自然の洞窟)などに集まってお互いに殺し合い、渡嘉敷島では300人以上が犠牲になったとされています。
渡嘉敷島で暮らしていた小嶺さんも祖父母と母、妹3人らと山中に逃げました。そこでは、多くの住民たちが集まって集団自決が起きました。手投げ弾の爆発音と悲鳴が響きました。小嶺さんの祖父はためらっていましたが、祖母から「うんじゅ(あなた)がやらんなら私がやる」と言われ、木の棒で家族の頭を殴り始めました。
一番年下の妹は当時3歳ぐらいでした。その場から逃げようとしましたが、無理やり連れ戻されました。その様子を、小嶺さんは母親にしがみついて見ていることしかできませんでした。「助ければよかったって、今だから考える。でも、あのときはそうじゃなかった」
近くにアメリカ軍の砲弾が落ち、その破片が小嶺さんの腕や足にも当たりました。そばにいた母親は両腕が血だらけになりました。それでも祖父は手を止めませんでした。小嶺さんは祖父に殴られ、既に横たわっていた母親の上に重なるように倒れ込んだのを、ぼんやりと覚えています。
小嶺さんは、目が覚めると治療を受けていました。母親と妹3人は亡くなり、祖父は家族を手にかけた後に自ら命を絶ったと、島の大人から聞きました。小嶺さんは命を落とした妹たちのことを「悔やんでも悔やみきれない」と話します。
80年がたち、祖父に殴られた頭の傷痕は目立たなくなりましたが、今でも髪は生えず、帽子で隠しています。砲弾の破片が当たった傷痕は体のあちこちに残り、右手の小指は握り込むことができません。
「戦争は大変だよ」。小嶺さんは遠い記憶をたどりながら、そう繰り返していました。
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※「疑問氷解」は休みました。